ラッキー・ルチアーノ(5)

この意味で、「1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの住み、その後再度ナポリに移り、スカラ座バレリーナのイゲア・リッソーニを愛人にし、彼女と共に競馬場や高級レストランに毎日のように通い優雅な生活を送る。表は医療器具や家庭電化製品を扱う商人で、裏は麻薬や煙草の密輸をやっていた。 アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。この意味で、「1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの方法を教えた」という評価を受ける。 勿論、麻薬に関してはユニオン・コルス(英語版)が以前より地中海で幅を利かせていたが、アメリカ本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力はさらに拡大する結果となった。中継基地のキューバも手中に収めている点で、ルチアーノは間違いなく1950年代の麻薬王となった。この麻薬はマフィアの資金源として彼の権威を絶大なものとした。さらにその資金を、ミラノの弁護士で銀行家のミケーレ・シンドーナを通じてマネーロンダリングさせていた。
死去
その後も、シシリー・マフィアとカモッラとの仲をとりもったりするなど、常にイタリアとアメリカの犯罪組織に大きな影響を与え続けたが、生きてアメリカの土を踏むことはなかった。 1962年1月16日に、自伝映画製作者を出迎えるためナポリ空港に出向いたとき、空港で心臓発作を起こし死亡した。アメリカのマフィアは映画製作に反対していたため、ルチアーノの死は暗殺の疑いもある。遺体はニューヨークのセント・ジョーンズ墓地に埋葬された。