杉原千畝(読み)すぎはらちうね

杉原千畝(読み)すぎはらちうね
知恵蔵の解説
杉原千畝第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、日本政府の命令に背いて日本通過ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。自らの工場で働くユダヤ人を救ったことで知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
1900年1月1日、岐阜県八百津町生まれ。早稲田大学高等師範部英語科を中退、外務省の官費留学生として満州(現・中国東北部)のハルビンでロシア語を学んだ後、同省に採用される。満州フィンランドなどでの勤務を経て、39年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任した。「命のビザ」を発給したのは、40年夏。ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきた。杉原は、要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を認めるよう外務省に願い出たが認められず、悩んだ末に独断で発給を決断。領事館は既に閉鎖が決まっていたが、出国直前までの約1カ月間、発給を続けたという。その後、チェコルーマニアなどで勤務し、46年に帰国。翌年、外務省を退職した。訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれたとの思いから、退職後は外務省関係者との交流を断ち、86年7月31日に死去した。
「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだという。85年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、91年にはリトアニアの首都にある通りの一つに「スギハラ通り」と名前が付けられた。故郷・八百津町には92年、「人道の丘公園」がオープンし、生誕100年となる2000年には記念館も設立されている。外務省も1990年代に入ってから当時の経緯の検証など「関係修復」に向けて動き、2000年に河野洋平外務大臣が遺族に謝罪した。 (原田英美  ライター / 2010年)出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について

杉原千畝 - Wikipedia
http://bit.ly/1avA1Ud

杉原千畝について|杉原千畝記念館
http://bit.ly/2ykZpDC

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