ラッキー・ルチアーノ(4)

釈放と強制送還
ドイツが降伏しヨーロッパ戦線が終結した直後の1945年5月7日に、恩赦を求める嘆願書を、ニューヨーク州知事となったかつての宿敵デューイ元検事に提出した。政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可した。しかし、アメリカ市民権を持たないのでイタリアへ強制送還される。これは、上記の「ハスキー作戦」への協力の見返りに当初から密約済だったという説や、裏でデューイに多額の政治資金を送ったという説もある。 同年8月には第二次世界大戦終結し、1946年2月にニューヨーク港を発った。船内では豪華なパーティーでルチアーノの送別会が行なわれた。参加者はマイヤー・ランスキー、ベンジャミン・シーゲル、フランク・コステロ、ジョゼフ・ボナンノ、オウニー・マドゥン、カルロ・ガンビーノ、アルバート・アナスタシアらマフィアの大物多数であった。 このとき、港には多くのマスコミ関係者がルチアーノを取材しようと詰め掛けていたが、アナスタシア兄弟の指示を受けて、彼らの前には荷揚げ用のフックで武装した港湾労働者が立ちはだかり、ジャーナリストたちは一歩も進むことは出来ず、取材はできなかった。なおこのときルチアーノは「すぐにアメリカに戻れる」ものだと思っていた。
追放後
イタリアへ「強制送還」されると、生まれ故郷のレルカラ・フリッディに帰るが、田舎の環境が気に入らずイタリア南部のナポリで生活をする。 その後一度はキューバに落ち着き、1946年12月にマフィアの全国委員会「ハバナ会議」(重要な議題はベンジャミン・シーゲルの処遇、麻薬取引)がキューバで開かれ議長を務めた。しかし、独裁者のフルヘンシオ・バティスタの息子もしくは孫とうまくいかず、さらにキューバ政府に影響力を持つアメリカ政府がキューバ政府に圧力をかけたため、1年後にはイタリアへ戻ることになる。
最初はパレルモに住み、その後再度ナポリに移り、スカラ座バレリーナのイゲア・リッソーニを愛人にし、彼女と共に競馬場や高級レストランに毎日のように通い優雅な生活を送る。表は医療器具や家庭電化製品を扱う商人で、裏は麻薬や煙草の密輸をやっていた。 アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。