光クラブ事件(3)

1949年7月4日 ヤミ金融会社「光クラブ」社長で現役東大生だった山崎晃嗣(あきつぐ)が物価統制法令違反の容疑で逮捕されました。 同年9月 処分保留のまま釈放されるが信用を失った「光クラブ」は業績が悪化。出資者から3600万円(現在でいうと18億円)の返済を求められる。山崎晃嗣は返済を約束した前日の11月24日深夜 銀座本社の社長室で青酸カリを飲み自殺しました。息絶えるまで遺書を書き続けていたと言われています。享年27歳でした。

「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」それが山崎のモットーだった。

「年中無休 天下の光クラブ 弊社は精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社 」という新聞広告で資金を集め「光クラブ」は急成長をしました。山崎は東大エリート社長としてその言動は注目を浴びました。
 1948年秋 東大から学徒出陣し復学した山崎が日本医大生三木仙也(当時25歳)とともに元手1万5千円で東京中野に「光クラブ」は設立されました。

月1割3分という高い利息を払うということで出資金を集め月2割1分から3割という高利で貸していました。
 役員に現役の東大生や中大生を置き返済を怠る顧客に対しては暴力団まがいの取り立てを強行した。翌年1月 会社を中野から銀座に移しました。この時「光クラブ」は資本金600万円 株主は400人 社員は30人でした。
 山崎は1922年 千葉県木更津市で名家の5人兄弟の末弟として生まれました。1943年東大法学部に合格、しかし学徒出陣で軍隊へ。1946年23歳で復学します。山崎は1日の行動を30分刻みで日記に記していました。彼は「女は道具」と言い放し愛人は8人いたと言われていました。そして光クラブ絶頂期に愛人として社長秘書を雇います。ところがこの女性は税務署が送り込んだスパイでした。彼女を通じ経営実態は筒抜けになり「光クラブ」と山崎は破滅したのです。

 第二次大戦から戦後という特異な時代「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」「人生は劇場。ぼくはそこで脚本を書き演出し主役を演じる」と言い放った山崎晃嗣という男の生き様は 高木彬光が「白昼の死角」三島由紀夫が「青の時代」として小説にしています。三島由紀夫山崎晃嗣と同時期に東大に在籍しています。そして 1970年 三島由紀夫が自ら命を絶ったのは山崎の命日の翌日11月25日でした。