ベールを脱いだ日本のフリーメーソンたち(2)

片桐 フリーメーソンリーは、オカルト結社である、とたびたび批判されています。三十三もの階級に分かれていて、階級を昇るたぴに秘密の教えを順番に説かれていくとも言われている。しかし、こういう話は、半分は本当ですが、半分は誤解です。まず、フリーメーソンリーには徒弟・職人・親方という三つの階級しかありません。しかしこのメーソンリーの付属団体として、スコッティッシュ・ライト、ヨーク・ライトという二つの団体があり、こちらには一応、高位階が用意されています。とはいえ、メーソンリーの上部団体ではありません。命令や指導する権限などないのです。この二つはメーソンリーの哲学を詳しく勉強したい人のための団体なのですが、その教えをひとことで言えば、個人の尊厳が大事だということを説いているだけのことです。オカルト的・秘教的な教えを期待した人は、必ず失望します。
 メーソンの中で教えられることは、神秘主義的な教えではなく、もっと世俗的な道徳ですよ。ただ、生と死については、まじめに考えられています。人間は死後に、シュープリーム・ビーイング(至高存在)によって審判が下される。その時後悔することのないように、まじめに生きろと諭されるわけです。当たり前の道徳という以上のことはないですよ。

英語を話すロッジにおいては、フリーメイソンの神は"G"という文字によって表されている。そして彼らが彼らの新入会者たちに与えるフリーメイソンの聖書 - それはそれ自身のフリーメイソンの付録をもった聖書のジェームズ王翻訳版である - の中で、それは、"G"という文字が「すべてのフリーメイソンたちの偉大な神」を表している、と言っている。同様にまた、フリーメイソンの神はすべてを見る眼によって表されている。それは明らかにオシリスにまで遡る一つの異教的なシンボルである。そしてフリーメイソンはだれでもフリーメイソンの儀式においてこれらのシンボルに対する偶像崇拝の行為においてお辞儀をすることを要求されている。

フリーメイソンがあらゆる神々を三位一体に等しいものとして見るように、すべての宗教的な書き物を聖書に等しいものとして見る。そしてこのことは再び理性に反する。聖書はキリストの神性を主張している。コーランはキリストの神性を拒否している。それにもかかわらず、フリーメイソンはそれら両方が神の意志を反映していると主張する。確かに、悪魔自身によって創始されたのだ。