ベールを脱いだ日本のフリーメーソンたち(1)

片桐 クライプさんの今のお話は非常に大事なポイントです。僕は難しいことが苦手なので、ごくくだいた言い方で補足します。
 近代フリーメーソンリーの歴史は、一七一七年にロンドンで四つのロッジが集まって、最初のグランド・ロッジを作った時から始まると言われています。一八世紀の前半のことですから、宗教界が英国の中でもゴチャゴチャに混乱していた時期なのです。まず、カソリックプロテスタントの対立がありました。プロテスタントの中でも英国国教会派と非国教会派とがいます。そして国教会派の中でも長老派とそれに反対する勢力という具合に、細かく枝分かれして対抗していたわけです。人々は互いに相争い、非常に疑心暗鬼になっていた。そうした時代を背景として、「宗教的寛容」を説く、フリーメーソンリーが登場したわけです。時代が、フリーメーソンリーのような団体を求めていた、とも言えるでしょう。その結果、宗教対立にうんざりしていた様々な宗派の人達がフリーメーソンリーに入ってきたのです。
 フリーメーソンリーでは、抽象的な概念としての「至高の存在」(Supreme Being)に対して尊崇を表す。これは儀式や集会の中で必ずやります。しかし、この場合の「至高の存在」とは、キリストでもないし、お釈迦様でもないし、マホメットやアラーの神でもないんですよ。僕は一応、仏教徒ですから、心の中で仏様に向かって祈るわけです。クライプさんはキリスト教徒だからキリスト教の神に祈ってる。それでいいんです。「至高の存在」とは、色々な宗教の最大公約数的な概念なのです。

「あなたは誰にあなたの信頼を置くか?」そして志願者がいかなる神を告白しようとも、フリーメイソンは彼にこう告げることを要求される:「あなたの信頼は神のうちにある。あなたの信仰はよく基礎づけられている。」それゆえ、イエズス・キリストを拒否する人々に対して、フリーメイソンは彼らに明白に嘘を言うのである。そしてそれは、フリーメイソン創始者が嘘の父である理由である。 事実、この立場は単に啓示に反するだけではなく、理性それ自身に反する。明らかに、キリスト教と非キリスト教的諸宗教は両方がこの点において正しいものであることはできない。一方は偽りでなければならない。フリーメイソンの教えはここで明らかに客観的な真理をまったく否定する。