南無妙法蓮華経

「南無妙法蓮華経」の「南無」とは、古代インドの言葉・サンスクリット語梵語)の「ナマス」(namas)あるいは「ナモー」(namo)の音写で、「帰依」「帰命」を意味し、この法を自身の根本として生き、自らに体現していくことを示しています。
妙法蓮華経」とは、もとは法華経の正式名称ですが、、経典の題名の意味にとどまらず、法華経の肝要ともいうべき法の名でもあります。
「妙法」とは、この根本の法が理解し難い不可思議な法であることを意味しています。そして、その妙法の特質を、植物の蓮華(ハス)に譬えています。蓮華は泥沼の中から清らかな花を咲かせ、つぼみの段階から花と実が同時に生長します。すべての人が苦悩渦巻く現実の中で、揺るぎない幸福境涯(仏の生命)を確立できることを蓮華になぞらえています。

南無妙法蓮華経の功徳とは、南無妙法蓮華経と唱えることによって得られる功徳のことです。功徳とは何かについて、以下『悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり』とは実に明快なお言葉かと思います。

『功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり(御義口伝762頁より引用)』

南無妙法蓮華経はこれを唱えることによって功徳があり、その功徳とは、悪を滅して善を生じていくということなのです。

日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱へることについて次のように仰せです。

『譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(御書全集384頁・一生成仏抄より引用)』

迷いの命、汚れた命もただ、南無妙法蓮華経と唱へたてまつることによって磨き上げられる、すなわち、仏界の生命を顕していけると仰せになっています。

南無妙法蓮華経の功徳とは
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(マントラ 真言 祈り)